正解

「正解」を追い求めるのは、まさしく現在の日本教育が提示する理念である。この考えに私は囚われ、現在進行形で苦しんでいる。

「正解」があるということは「間違い」があるということであり、みんな「正解」という甘っちょろい幻想は多種多様のテストによって破壊されていく。テストの問題で間違えてしまった時、次に行うのはやり直しである。これはテストという上書き可能な代物であるから適用されるものであって、いつになっても過去が付きまとうことが決定している人生においては適用外である。それでも同一視してしまうのが教育の賜物で、近年親ガチャという言葉が流行った。これこそまさしく、究極的なやり直し願望であり、生まれたところが「間違い」であったという思いのもと生まれた悲劇的な言葉である。

現在を「間違い」と認識し、「正解」へと直そうと試みる。これは日本の教育が提示してくれた一つの道であり、この理念に従って正しい道を歩めた人も少なくないだろう。

しかし、近年のSNSの発展は「正解」のハードルを高く、狭きものにした。数学の証明問題に部分点が無くなったようなものである。満点しか許容できないこの世界において、「正解」を追い求めることは難しく、私はその奮いに落とされてしまった。本当は今からでも十分過去の「正解」であるならば導けるはずだが、世の中は今の「正解」しか許容してくれない。勉強をし、努力をし、友を作り、好きを職にして、やりがいを感じ、適度な時間働き、家族もいて、子供の成長を見守る。自分だけが今の「間違い」を「正解」と信じ、しがみつくのはあまりに辛く、厳しく、報われない。どうしたって、一度間違えた人生が今の「正解」になることはないのである。